平成29年(2017年)5月の放送予定
5月10日(水):第五十回:世にも不思議な話
話者:センセイ、マッサン、トッチャン
妖怪と現実との虚ろな関係を話しているうちに、センセイが「そっちのことなら幾らでも言えることがある」と実際に体感した奇妙な経験を語り出す。そこは仕事で訪れた古いマンション。恐らく戦後すぐ建てられたような佇まい。今とは異なる構造。マンションの中央に入る引き戸がある。センセイの体験から、現代は科学偏重主義になり過ぎて未科学(科学でまだ解明されていない部分)の存在を無いかのように疎かにしている問題点を指摘。(センセイは最終的には科学で全て解明されるのだろうが今はその兆しすら見えない科学レベルと捉える)マッサンは妖怪とはまさに日本における理解不能な事象や、受け入れがたい現実を「妖怪」に置き換えることで「先へ進む」手助けにしたのだろうと締めくくる。
5月20日(土):第五十一回:書
話者:センセイ、マッサン
たまには書(しょ)の話でもしようかとセンセイ。書き始める動機は単に「似せて楽しい」といった部分から始まるもので構わないのに、現代人は「読める読めない」「意味がわかるわからない」で手が止まることを指摘し、その本末転倒さを言う。漢字が読めなくて気になる人は自分で漢和辞典を調べ、自得すればいい。やっているうちに人はどうあれ次第に気になるもの。その時点でやればいいと。行為がまず先にあり、「この差はなんだろう」そうした疑問から始まる。それを受けマッサンは自分がそうだったと。センセイは「小さな疑問の積み重ねで教養というのは出来るのに、今の教育は一纏めにして教え込んでしまうので逆に小さな変化や疑問は失われ、それはつまり教養がない人間を排出している」と。マッサンは現代は何でも類型化しており豊かさが無くなったと応える。小さな疑問の積み重ねは教えられるものではなく、自ら体験し、感じてこそ湧き上がるものであると語り、更に書の話しが続く。
5月30日(火):第五十二回:書作品とその周辺
話者:センセイ、マッサン
出先の会場で収録。マッサンがLEDの登場により目が非常に疲れ安くなったと話し出す。そこからLEDに限らずCGを使った映画や看板広告等がすべからく共通点として「自己主張が激しすぎる」と。目の肉体機能から考えて眼精疲労が累積的かつ加速度的に増大している社会を語る。そこから書作品の鑑賞方法へと話しが移る。持論である「部分は全体を越えられない」が関わってくる。作品は全体感で決まるという。全体を見て、細部を見るもの。全体が崩れていれば細部がどれほど緻密でも覆られない。大作の場合、全てが克明に描かれた作品は鑑賞者側に圧が強すぎて全体感を損なうことを考慮にいれる必要がある。量感が強いのであれば細部は寧ろ疎にして全体感を伝わるようにする等の表現技法の話しに。そこから書作品と作品表現の話しに深まっていく。
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