平成29年(2017年)1月の放送予定
1月10日(火):第三十八回:駄菓子
新年はじめの”ともえ”は軽く駄菓子の話。世代により思い出す駄菓子は異なるものの、長く愛される商品も少なくないよう。子供の頃に戻って笑い合う。あんこ玉、瓶のラムネ、パラピン紙で包装された固形ラムネ、ライスチョコレート、マンナ、ブタメン、カバヤのジューシー、ペッツ、よっちゃんイカ、水にとく粉末ジュース、ボンタンアメ、中野の昆布(都こんぶ)。次から次へと飛び出す。その中でセンセイしか知らない駄菓子も飛び出す。センセイの頃は ニッキの木 が駄菓子として5円で売られており舐めると甘かったこと、貝殻の外形で舐めると甘い駄菓子もあったと二人を驚かせる。
また、センセイが子供の頃はお菓子も量り売りで、お店の店主と駆け引きを楽しみながら人間的交流があったことを語り、5才違いでしかないマッサンの頃には既に無くなっていたと知る。今と昔では子供の顔が全く違うとマッサン。土門拳の子供を撮った写真集を思い出す。昔は遊びに夢中になると漏らしてしまう子もいたとセンセイ。トッチャンは怒られるといえば水たまりに入って怒られたことを思い出す。子供の頃に戻って思いでを語り合う。
1月20日(金):第三十九回:蛇娘と白髪魔
昔からセンセイとマッサンの間で話題になっていた映画。二人の中では「蛇女」として認識されておりタイトル不明。センセイは映画館で、マッサンはテレビで見たという。センセイが「もう一度みたいね~」と再び話題に登り、マッサンがなんとなく調べたところ「蛇女」という作品では無く「蛇娘と白髪魔」 かもしれないとマッサン。お互い「まさか~そんなタイトルじゃないよ」と思いながらも粗筋がどうも心当たりがある。そんなこともしばし忘れていたおり、「妖怪大戦争」の放送をやる際に再び本タイトルを目にする。
記憶を辿りなが話はじめる二人。お互いこの映画に対する印象は 暗い もので共通していた。センセイは映画を見て蛇娘が顔のパックを剥ぐのを見て今でも女性のパックを見ると思い出すという。トッチャンは初めて見て、二人が言う印象と大きなギャップがある。曰くセンセイは「子供と大人の視点の差だろう」と。話題は 妖怪大戦争 も絡みだし、子供の頃に見た印象と大人になって見た印象ではまるっきり違うという話に。そこから子役で可愛いと成長してガッカリすることが多いという話題になる。いい意味で常ではない中で、時の経過や練磨の継続により深蒸した味わいが生まれた後に語り継がれるものになると言う。
『蛇娘と白髪魔』:楳図かずお原作、大映製作の怪奇映画。1968年12月14日に劇場公開。上映時間82分、モノクロ、大映スコープ。同時上映「妖怪大戦争」。初公開: 1968年12月14日 監督: 湯浅 憲明 出演者: 三宅 邦子
1月30日(月):第四十回:無法地帯
トッチャンがトマス・ホッブズのリヴァイアサンの引用を話すことから始まる。マッサンはそれを受け、どこからどこまでが洗脳で洗脳じゃないかの線引は非常に難しく大なり小なり洗脳はそここでなされていると受ける。センセイは日本が戦後様々な権力者の意図によって洗脳されたと言う。ただし自分は洗脳されなかったと。それは祖父母が戦後様々な洗脳を目の当たりにし、「孫はそうさせたくない」という中で育てられたからだと振り返る。
センセイは曰く洗脳とは私利私欲の視点でもってアンバランスなものを刷り込むことだと語る。洗脳を解ける唯一の方法は芸術だと。自らの偏りを相手に押し込める洗脳と、伝統の型を刷り込むことは違うと述べる。伝統の型は時間の経過や人々の自然な精査によって淘汰され残り得たものであり、それは偏りが限りなく排除されたものである。洗脳と普遍の踏襲をごちゃ混ぜにしている人が多いと嘆く。そして曰く、芸術家であるならば洗脳されないで生きるのが基本であると言う。
「部分は全体を越えられない」 それを二十代で理解したというセンセイは三十七才で取り組んだ個展用の作品「老子道徳経20メートル20幅」で体現。マッサンはセンセイの個展を振り返り、今更ながらあの作品を感じ取れるという。どんなに細部をこだわっても全体として崩れていれば意味はなく、現代は小さなことばかり完璧を求め一方で個人の人生や個々の家庭、組織、更に社会と大きく捉えた際に非常にアンバランスで崩れいていることを伝える。
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