2017年(平成29年)9月放送予定
9月10日(日):第六十二回:メロスと太宰
話者:センセイ、マッサン、トッチャン
「人は棺をまとってみるまでわからない」というセンセイの話を引用するマッサンの話から始まる。小説の巻末にあるように「走れメロス」はシラーの詩から発想したという部分があり、そこに当時の太宰治の環境や心理状態から結果的に仕上がった作品と伺える。センセイは「人間仕事だから駄作もあれば良いものもあるし、でも、トータルでみるものだから」と言う。更に「人はやってきたことしか出ないから」と太宰治の人間仕事を語る。マッサンは「気になったものがあれば、やった方がいい」という自らを省みる。トッチャンは、太宰の文章は独特なテンポがあり読むとそれが抜けづらいと聞くと語る。センセイはそこから文章表現における自己体験を語る。文章の間に、あまり「~は」を入れると違和感があると自らの感覚を語る。特に「~に」「~を」「~の」なら大丈夫な感じがすると。文章表現の話になっていく。
9月20日(水):第六十三回:文章表現
話者:センセイ、マッサン、トッチャン
センセイは前回に引き続き文章表現について二人に尋ねる。主人公が出てきて語り言葉で書く人がいるけど、あれは「ありなの?」と。マッサンは「両方ありなんだろうけど、理想とする点に関しては出来るだけ無く、凝縮した詩のような表現だろうと思っている」と応え、その理由について「言葉で羅列しても結局は受信者側の能力に委ねられている。ということは言葉が多すぎると読み取れない人の方が多くなる。出来るだけ短い言葉で凝縮された文が理想と今は感じられる」と言う。センセイはそれを聞いて「書き直さないといけない」応える。自ら執筆中の「ポプラの丘」について、そこが気になっていたと。センセイは自ら叙事詩を執筆する中で花鳥風月を書いている時は詩になるけど人間が出てくると詩にならなくなると気づいたと言う。マッサンは強く納得し、人が出ても生っぽくなるのを避けるにはと語りだし、トッチャンも様々な表現者達の方法に触れ、センセイも呼応していく。
9月30日(土):第六十四回:ハンガリー訪問記
話者:センセイ、マッサン
2017年4月、センセイが代表を務める泰永会の海外展が初めて開催された。主催、運営はハンガリーのハンガリー・日本友好協会、ケチュメート・青森友好協会の協力を得て由緒正しいラダイ博物館にて一ヶ月の開催という幸運を得る。「ここまでして頂いて行かざるは恥」と、第二十八回泰永書展ケチケメート市~プレゼンス~ のレセプションに向け弟子七名を連れてハンガリーへと渡ることになった。氏にとっての初めての海外は波乱のスタートとなる。1時間の遅延によりトランジットで乗り換えの飛行機が出てしまう。代わりに用意された便はローマ経由の遠回り。その上で荷物が届いてないと告げられる。英語に堪能な弟子数名が交渉するも・・・果たして旅の顛末は。
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